一年、そしてこれから。

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3月11日。東日本大震災から一年が過ぎました。
とても早く感じます。
このところ、テレビ、新聞などで特集が組まれ、検証や問題の掘り起こしなども行われています。
表に出てくる事は、時間がかかっても解決の道を探れるはずですが、深く沈んだ問題はやっかいです。
例えば、同じ仮設にいた人が相手の話を聞いていいものかどうか、自分の話をしていいのか悩むという報道がありました。
傍からみると、同じ境遇同士で話をしてみたらどうかと、安易に思うのですが、東北の人はこころ使いが深いのです。自分は違いますが。
人により被害の程度、人的被害、仕事の状態、家の状態などが異なり、ほぼ同じだとしても、受け止め方が同じではありません。それが分るだけに、相手の中に入っていけないのではと思います。テレビタレントのように、ずんずん入り込んではいけないのです。


特に内陸部で被害にあった場合は、口にすることを憚れる雰囲気があります。「そんなの津波に比べて大したことないだろう」「海から離れているから、問題ないよね」と言われる事も多いのです。
確かにそうです。何もかも呑み込んだ大津波に比べれば、原発近辺の三重苦に比べれば、「大したことない。」
しかし、程度の差はあれ、人は傷つくのです。
借家住まいで、それが無くなったからといって、別な所を借りればいいだろう。全く、その通り。
しかし、長く住んでいる所が使えなくなり、持ち物も使えなくなり、跡形も無く更地になってしまったのを見ると、やはり喪失感はあるのです。なんともいえない虚しさが、たまにではありますが湧き上がってきます。一年経っても。
「全壊だって?ハハハ冗談だろ」
内陸だからそんなに被害があるはずがないと思い込み、悪気がない事は知っているのですが、そう言われると、なんとも言えず寂しいものです。しかし、体験が無ければ、想像できない事も分っています。自分だって、阪神大震災の時、どれほど想像できたかというと、正直、人事でした。
もっと厳しい被災者の人たちの事を慮って、何も誰にも言えず、気持ちを抱えんでしまっている人も少ないのでは、と思います。
仙台の内陸部だけでも全壊家屋が万単位であります。みんながみんな、明るく前向きに再建してる、わけではないでしょう。経済的な事もさることながら、心の問題は、見出しにくく、時間がかかる。
少し、その辺を注視していきたいと思います。