「八重の桜」の主人公、新島八重(山本八重)の生き方に興味を持って、鈴木由紀子著「ハンサムウーマン」を読んだ訳ですが、八重の人生を語る上で欠かすことのできない、兄、山本覚馬についても、興味を持ち、同じ著者が15年前に書いた「闇は我を拒まず 山本覚馬伝」(第4回SAPIO 21世紀国際ノンフィクション大賞優秀作)を読みました。
同著は現在は、入手困難になっていますが、改題改訂されて、「ラストサムライ 山本覚馬」として発売されています。
会津藩の武家の娘として生まれながら、家族の理解と自身の努力、そして困難を乗り越える会津魂で、世界観を自ら変革していった、ハンサムウーマンにして日本初と言ってもいい”レディ”八重の人生は、驚くばかりですが、兄、覚馬も、自己変革と行動力に満ちた、もの凄い人生で圧倒されます。
以下、「八重の桜」のネタバレになることあります。
大河ドラマでご存知のように、会津藩で、砲術指南の家に生まれた覚馬は、海の無い土地がらでありながら、海防を幕府から命じられた藩の事情もあって、外国に対抗する知識や鉄砲の知識を得るため、江戸の佐久間象山に弟子入りします。
また、後に、京都守護職となった藩主について行った京都では、薩長の武力を知り、新式の鉄砲調達と、また禁門の変などで痛めた目の治療のためもあって、長崎に赴き、そこで、外国人の医師やドイツの武器商人らと、人脈を築きます。
会津藩で行われていた教育制度による素養、砲術指南という、合理的な発想が必要な技術職の家柄という環境、留学先での蘭学や外国語の猛勉強が加わり、さらに開明派の日本人、外国人とのつながりができて、その後の人生を大きく変えていきます。
また、江戸留学中に、黒船を見て海外の技術を目の当たりし、外国の事情を知るにつけ、藩と江戸幕府のために生きていた時期より、開国して国力をつけるという「勤皇の志士」達と同じような考え方を持ち始めていたように思われます。
しかし、藩がある内は、やはり会津藩士として、ただひたらすら殿様と幕府、天皇のために戦うわけですが、薩長の策略にはまり、会津藩が追い込まれてく戊辰戦争の中で、弟と父が戦死。八重が女だてらに篭城戦を戦っている頃、失明して薩摩藩に囚われます。
家族を失い、価値観のよりどころの藩がなくなり、失明して戦うこともできない。普通なら、そこで潰れてしまうでしょう。
しかし、明治元年、囚われた薩摩藩の京都屋敷の中で、「管見」という新政府に対する意見書を作り始めます。目が見えないから口述筆記です。
その内容が凄い。坂本竜馬の「船中八策」を、さらに拡大した壮大、かつ具体的な国家戦略の建白書です。もちろん獄中の覚馬が「船中八策」を知るよしもないので、同じ横井小楠系の薫陶を受けたからということでしょうか。
22項目からなる指針は、天皇制の元の三権分立、国会二院制(小院は高額納税者いずれは四民も)、儒学系の修身より、政治、経済・法律・医学など実学の学校を作る、(通商)商業立国、製鉄を振興して立国、金本位制で裏づけのある紙幣発行、男子と同様の女子教育、遺産の兄弟間の均等分配、貿易振興関連で船の遭難時に備え損害保険制度、世襲制の廃止、官吏の能力による登用、徴兵制、税金は四民平等、等々。
どうですか?これを、明治元年に、「封建的な」会津藩の武士が構想していたんですよ!外国の書物を読み込んで、実際に外国の商人らとつき合う中で、考えたことでしょう。
特に、女性に男子と同じ教育を施す、というあたりは、妹八重を見て、教育機会を与えれば、才能ある女性が、国の大きな力になると実感したからでしょう。これは他の「勤皇の志士」には無かった発想。
さらに、「墓守に堕落した僧侶に、語学や算術をなど実学を学ばせ、寺を学校に開放すべし」という項目もあって、現代が、未だに明治維新の頃と比べてどうなのかと、思わされます。
ただ、いくらいい意見であっても、机上の理想論で終わるなら、他にも同様の人はいたかも知れません。
しかし、覚馬は、「朝敵」会津藩出身で、しかも盲目の状態にもかかわらず、その知識と意見を買われて、京都府顧問として、戦災と遷都で落ち込んでいた京都の復興に関わるようになり、第1回京都府議会議会に当選、初代議長となります。さらに、後には経済手腕から京都商工会議所の会頭も務めます。
合理的な精神で構想・立案するだけでなく、うまく人を使ったり、名を捨て実を取る戦略も持ち合わせて、不自由な体を押して大活躍するのです。
さらに、内外の人脈を生かして、新島襄の同志社設立を強力に後押ししたり、八重に外国の知識や英語を学ばせて、女子大の前身で教師をさせたりと、教育面の実際にも奔走(足も弱っていたので、八重や後妻の時栄に負ぶってもらいながら)したのです。
そして、外国の書物を読んでもらいながら、暗記するという生活の中で、その根源となるキリスト教の精神を学び、最後は洗礼まで受けます。
自分の中で、藩と殿様のため、京都のため、新しい日本のため、そして最後は、広く「人のため」に生きると、価値観を拡大させていった覚馬。そのためには必要な知識を貪欲に吸収し、制度作りにも奔走します。
その精神は、妹八重に受け継がれ、新島襄と共に、迫害されながらも新しい女性の生き方を実践しつつ、女性も含めた新しい学校の運営と、後には赤十字の看護婦として従軍、という道を選ばせたのではないかと思います。
まさに、「教育と人とのつながり」こそが、個人の価値観を大きく広げ、世の中を変えていく原動力になると、まざまざと思わせてくれる人物、それが山本覚馬です。
「勤皇の志士」が好きな方は、薩長土肥以外にも、維新があったのだと感じられると思います。是非、一読していただきたい本ですね。